英国フラワースクール フラワーデザイン・オブ・ブリテン

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フラワーデザイン・オブ・
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フラワーデザインの歴史

フラワーデザインの発祥はどういう形だったでしょう。想像つきますか?お花はボールをはった水に入っていたり、バスケットや花瓶などを用いられ、ほとんど今も見られるいたって簡単な方法だったに違いありません。その歴史の始まりは1400年代とも1200年代とも、もっと古い説では紀元前400年にすでに存在していたと言うことです。中国人や古代エジプト人たちの間で何処で、どんな時に、またどんな方法で花や果実を飾るかの記録があるということです。その頃の経過をたどりましょう。

中国では
207 B.C. - 220 A.D.位の時代、中国ではすでにハーブを用いた効用の数々が記されています。古くからの哲学原理や、自然へのいたわりの気持ち、またいろいろな中国文化における宗教的な影響(道教、仏教、儒教)により人民はただ単に花を切り水に挿すのではなく寺院自体を装飾的に変化させて行きました。 これは紀元前 618年から906年までの唐王朝から始まります。そして人々は花いう遺産を民間伝承の粋を超えていることに気づきやがて芸術から工芸品へと発展させて行きました。極めて美しい花の絵画、シルク工芸、巻き物、花瓶、皿、彫刻品、象牙、さらにはブロンズなどを使って人々の愛と花に対する理解を深めて発展しました。

仏教の教えでは命は永遠のもの。ですから普段の生活においては花や植物を粗末にせず倹約しました。しかし花のよい季節に限っては、たわわに咲く花とその葉と共にカゴに入れ飾りました。宗教による束縛があるにもかかわらず中国人たちはいつも見事に自然に花を飾ることができました。

ほとんどの花と葉には意味があります。梨、桃、竹などは長寿の大切さを意味。蘭、山百合、ざくろなどは豊富、繁殖の象徴。でもこれら以上あがめられたのが花の王と言われるボタンの花でした。富と地位に恵まれるすばらしい将来の象徴だったのです。

エジプトの遺跡より
エジプトでは紀元前2500年前の遺跡や壁画などより花は装飾品として使われていた事が判明。花は時々うわ薬をかけた花瓶やファイアンス陶器に挿していました。これらの花瓶と花は時々スポーツなどのイベントなどにも使われていたようです。この種の花瓶は後にペルシャで 1000年も後に見つかった花瓶と非常によく類似しており、また17世紀にオランダ西部の都市デルフトで生まれた陶器にも共通の点があることは非常に興味深いところです。

エジプト人たちによる花のあしらい方は、テーブルの花、葬儀の埋葬の花、行列用の花にしろ非常に様式のあるものでした。宗教的な意味あいも花や葉を選ぶ時に広く影響しました。 はすの葉はエジプト豊饒(ほうじよう)の女神イシスをさします。そしてこの花にはやしの葉とパピルス(紙の材料)が最もよく使用されました。この他の花は、ブルースキラ(青いヒヤシンスのような春に咲く花、球根)、アイリス、ポピーまたはアネモネ、水仙、デリフィニウムそしてバラなど今日にいたっても見られる花ばかりだったのです。

ローマン帝国時代ではフラワーアレンジメントはふんだんに日常生活において利用されました。その形態はポットや花瓶などに入れるのではなく、リースやガーランドとされていたのです。花びらはふんだんに床やベッドに撒かれました。オーク(柏)の葉、どんぐり、アイビー、ローレル、パセリ、月桂樹(ローレルとは違う種)、イチイの葉などはもっとも一般的に使われておりました。ヒヤシンス、バラ、スミレ、スイカズラ、ユリなどはこの時代においても好まれて使用されました。ラクスパー(千鳥草)、マリーゴールド、チューリップなどは色や形などが好まれ使用されていたようです。

500年-1453年時代に栄えたビザンチン帝国ではローマン帝国時代の習慣をそのまま受け継ぎ花を用いた優美な生活が続きました。 他のヨーロッパの国々では混沌とした時代がつづいていたのですが。このビザンチン帝国時代におけるフラワーデザインとしての 形はコーンスタイルだったのです。長くすらりと上に伸びる形は葉により形成され、足付きの壺に飾られたり、聖餐杯 (台付きの大杯、今日のコンポート)などに魅力的な色の果実とともに飾られました。ユリ、デイジー、カーネーション、 哀悼の象徴であるサイプレス(いと杉)が好まれました。この時代のアレンジメントの技術は高度で、時には低い器を使い、 中心からある一定の間隔にてフルーツ、花、葉と左右対称に造作していました。今日でも受け継がれているコーンスタイルがこのローマン帝国時代に 生まれていたのです。やがてローマン帝国が滅び、“暗黒の時代”がヨーロッパに訪れます。以前にもまして混沌の時代で、 とても花などに気をとられる余裕などはなかったはずです...少なくても1000年ごろまでは。やっとその頃になるともう一度花や 植物を用いて生活を飾ることが復活してきました。修道院や教会などは学問の中心となり植物や花を栽培したり、 ハーブを薬草として扱ったり、それらを料理に入れたり、フラワーデザインの一部に取り入れたりと変化がでてきました。 中近東より帰還した十字軍により当時では数々の見慣れない花や植物たちがもたらされました。

イタリアンルネッサンス時代にフラワーアレンジメントの芸術性が完全復活。この時代に様々なフラワーアレンジメントの スタイルが考案され、ヨーロッパ中の大ブームへと繋がったのです。イタリヤ貴族の庭は花のためだけにデザインされました。 ルネッサンスの芸術はこうして15世紀から16世紀を華々しく飾ったのです。ベネチアガラスの重いコンテナ、大理石や銅などの コンテナは花を心地よく引き立てました。一方庶民の間でもフラワーアレンジメントは浸透し、花瓶や壺なども普段使いに用い られ家庭ではよりシンプルなフラワーアレンジメントが好まれ用いられました。当初のフラワーデザインの色使いはやさしく、 形はクラッシックです。クールなブルーのアクセントとグリーンの葉はほどよいコントラストのために使用。やがてトロピカルフルーツを 加えることによってデザイン自体にひろがりを持たせました。 白百合のマドンナリリー(ニワシロユリ)、純潔と豊富の象徴として、 オールドローズ、ピンク、なでしこ、ジャスミン、アイリス、フレンチマリーゴールド、パンジー、ローズマリー、ヤグルマ菊など ありとあらゆる花が使用されるようになりました。教会の衰退の後、裏庭にて栽培されていた花たちも、より豪華に見せられ、 滑らかな石の手すりや(オブジェとして使用)整った庭の形、よろいかぶとなども用いられたりもしました。これらの置物は華麗で 富の象徴。ルネッサンス最初の時期とは大きく異なり、華美で派手な花の使い方と移り代わってゆきました。

1600年代の書籍より
1633年にローマで出版されたP. Giovanni Battistaの「Sienas’ Flora - overo cultura di fiori」では花の文化に付いて、 ガーデニングについて、そして花を銅飾るかなどのフラワーデザインに関する章がありました。そこにはすでに花をどう下処理 (コンディショニング)したらよいか、また切花の扱い方など今日私たちがフリーリストリーにて学習する様々なことがすでに 明記されていたのでした。作者は花に水で噴霧する事などもアドバイスしています。アレンジメントのスタイルについては マスフラワーを散らばし、メインのポイントになる花は時々一番上に飾るようなスタイルも記しています。

ひとつの芸術であるフラワーデザインの歴史は世界いたるところで育まれ今日まで継承されてきました。木彫刻、薄肉彫り、 つづれ織の壁掛け、絵画、遺跡やその他の有形資産となる芸術品などから、フラワーアレンジメントは人々の生活の楽しみのため、 そしてかけがえのない生活の一部と溶け込んでいたことがわかりました。